つみきろく

まいにちご自愛しています

デザインとアートの違いについて考えるなどした

今日は朝から本を読んだ。北欧の照明: デザイン&ライトスケープという本だ。

全部しっかり読んでもよくわからないことは確実にわかっているので、なるべく斜め読みするように心がけた。こういう写真が多い本は情報量が多いので適当に読んでも充分楽しめるからよい。

本の内容は特にヘニングセンとアアルトについて詳しく書かれていた。あとはユールなんかもちょっとのっている。わたしはアルネ・ヤコブセンの作品が好きだった。

ヘニングセンのデザイン画がわたしの長年の謎であったアートとデザインの違いについて教えてくれた。わかりきったことを書くが、これはわたしの認識下での捉え方の違いであって日本語としてあっているかどうかは全くわからない。対話は受け入れるが全面的な否定はご容赦願いたい。

アートとはその存在がギリギリ認められる感情を形にしたものであって、デザインはその対極、つまり機能から考えられる最適なものを形にしたものである。つまりわたしがおしゃれだな、と思って購入したIKEAの照明器具はそれそのもののデザインはさておき、我が家にこれを使用することはわたしの自己表現(アート)でしかない。

 

自分が最近漠然と抱えている悲しみについて考えた。

わたしたちは随分と貧弱な生活を送ることを余儀なくされているらしい。本当はもっと素敵で素晴らしいものをたくさんの人の力を借りて表現することこそが生活を営むということなのではないだろうか。

 

先日、とある場所で仕事で販売した某アイテムを目にした。そこは問屋だったから小売価格ではなかった。でも百貨店にいくと名前のついた紙袋と「信頼」によって料金が六倍程度に跳ね上がる。お客様がただ単に「そういうものだ」と錯覚して買ってくださっているだけで、そのアイテムには本当にそれだけの価値があるのだろうか。

誰かがやらなくてはいけないことだと言われても、やはりわたしはそのもの自体を騙して売っているような気がしてしまうときがある。感情を殺さなければ店頭に立てない商材もある。わたしはわたしの時間を売ってなにがしたいのだろう。

 

わたしは欲の生き物だ。去年までだったら夫は失業していたから自分が日銭を稼ぐことが当たり前だった。いろんな会社と働かせてもらって、あれこれと学ぶのも入ったその日から給与が高いのも本当にありがたかった。

でも今はどうだ。夫が定職に就けて文句をいいながらも日々の仕事で定額を稼いできてくれて、そしたらばやっぱり自分の意に反したようなことはやりたくないのだ。

 

夫は一時頃に帰宅の予定だったが残業になると言われていた。二時くらいまでなら一緒に食事をしようかと待ってみたが帰ってきそうにないので諦めてパスタとスープをつくって食べた。

結局夫は二時間残業になったらしい。私物を持ち込めない職場なのは理解できるが、残業を家族に伝えられないのはどうかと思う。なんらかの法律に反していないのか、今後も注視していきたい。

 

夫が食事を終えてから一緒に買い物に出掛けた。二軒スーパーをはしごしてもらって年末に備えて野菜を買うなどした。

 

晩御飯は簡単ににゅうめんとあったものを焼いたり切ったりして出すなどした。二十歳前後の頃は狂ったようにめんつゆでばかり味をつけていたのが嘘のようだが、最近わたしはめんつゆをやめた。よってにゅうめんも自分で醤油とみりんで味をつけただし汁で食した。

 

一時は毎晩のように誰かと通話させていただいていたけれど、最近はそれが落ち着いてしまっているので思考がどんどん凝り固まってひとつの個体になってしまいそうだ。安部公房の赤い繭で「おれ」が繭になった理由があるとすればこんなことなのかな。だとすれば多少はこのどうしようもない思想も哲学的で、嬉しいんだけど。